手の内・三重十文字・会10秒
「弓道の初心者に一番に教えるべきことはなんですか?」
高校二年生の春、20人以上の後輩をもつことになった私は師匠に尋ねた。
「そうだな、手の内・三重十文字・会10秒を徹底しなさい」
一番に教えるべきことが三つもあるのか。
「えーっと、手の内・三重十文字・会10秒ですか?」
「そうだ。最初が肝心だから大きく引くようにね。変な癖がつかないよう見てあげるんだよ」
これまで師匠のたった一言で幾度となく壁を乗り越えた自負のある私は、
ひとまず素直に従うことにした。
「はい、わかりました」
師匠の言うことだから間違いはないのだろう。
会10秒の意味
会10秒と聞くと「長すぎやしないか」と驚く人がいるかもしれないが、
師匠はなにも会を10秒もつことを完全な理想としていたわけではなかった。
「なぜ10秒なんだろう」と疑問に思った私は師匠に聞いたことがある。
「師匠、なぜ私たちに会を10秒ももたせるんですか?
早気の対策にしては十分すぎるように思うのですが…」
「そうだね、いい質問だ。なんでだと思う?」
「体力アップのためですか?」
質問を質問で返してしまうのは私の悪い癖だ。
「それもあるね。特に学生は体力が上がれば弓力をあげられる」
「それもってことは他にもあるんですか?」
「ああ、そうだよ。離れの準備をするのに慣れるためだ」
離れの準備。なるほど、よく分からない。
「離れの準備って具体的になんですか?」
「それはやっていくうちに分かっていくものだよ。先に誰かに教わるものじゃない」
すぐに答えをもらおうという考えは甘かったようだ。
ゴールで息を切らさないために
「でもね、10秒もいらないという君の考えは間違っていない。
会なんて本来3秒もあれば十分なんだよ」
私の考えは間違っていなかったようで、内心ほっとした。
「ではなぜ10秒ももたせるんですか?」
「だってさ、よく考えてみなよ。100mを全力で走るための練習として何回100mを歩かせたって、
本番で全力で走り切ることなんてできないだろう?弓も同じだ。最初に会を3秒だけもっていた人が
最終的に3秒の会で離れまでもっていくのは難しい。長い会を短くしていく方が簡単なんだよ」
ゴール手前で息を切らした選手の姿が想像できた。
「なるほど、少し分かった気がします」
「そう、なら良かったよ。分からないことがあったらいつでも質問しなね」
「ありがとうございます」
練習の量
「ここで注意しなきゃいけないのは、この練習方法は誰にでも当てはまるわけじゃないってことだ」
これで誰にでも通用する指導ができると思っていた私は驚いた。
「誰にでもは、当てはまらないんですか?」
「そうだ。一言に弓道といっても練習環境はさまざまだからね」
練習環境はさまざま。あたりまえに思えるこの言葉は、当時の私には新鮮だった。
高校の頃の私は、自分が所属する弓道部しか知らなかった。
コロナ禍ということもあり、他校との交流も少なかった時期だ。
絵に描いたような井の中の蛙だった。
「たとえば君たちは今どのくらいの頻度で練習しているかな?」
これは誇れるかもしれない、と息巻いて答える。
「ほぼ毎日です」
この答えは事実だった。
高校の部活動として私たちは週7日、一年のうち300日以上は練習をしていた。
一日の練習時間は放課後の2、3時間ほどだ。
「そうだね。この練習は僕が君たちを毎日観られるからこそできることなんだよ」
毎日観られるからこそできる?なんでだろう。
『手の内・三重十文字・会10秒』は24時間体制で考えないと理解できない難しい話なのだろうか。
「そう…なんですか?」
練習量に自信があった私は、他の人ができないのでは仕方がないと困った顔をしていたに違いない。
「ああ、そうだよ。仮に君たちの練習が週に一日だけだったとしよう。
週に一日の貴重な練習で会を10秒ももっていたら、いつまで経っても先に進めないだろう?」
難しさではなかったようだ。
「それは、、そうです」
「いろんなことを矢継ぎ早に言っても仕方がないから、
指導者としては言いたいことを一点に絞らなきゃいけない。
となると伝えられることも限られるよね」
「その通りですね」
なるほど。
間違ったことは教えないものの、細かいところまでは教え切れないということだろう。
そんな頻度の練習では面倒を見切れないといってもいい。指導には責任が伴う。
難しいかどうかではないらしい。
もちろん難しい話もあるだろうが、理解度に合わせて説明する段階も変わってくる。
初心者に合わせて、どこまで説明をするのかに指導者の力量が現れているのかもしれない。
そう思った。
手の内をおざなりに
「そうなると指導者は何を教えるのか一点に絞らなきゃいけないって言ったね?」
「はい」
「そうすると、『手の内なんか細かいことは置いといてまずは大きく引きなさい』とこうだ」
「ああ、よく聞くフレーズですね」
私自身、大学に行った先でもよく耳にした。
「僕たちの流派では手の内は重視されているから、僕はそれは違うんじゃないかって思うんだ。
初心者のうちから手の内をおざなりにしていると弓手で弓を握っちゃったり、
その結果、会のときにつっぱっちゃったりすることになりかねないからね。」
たしかに。
そうして左肩が入っていたり左右のパワーバランスがずれていたりする人は多い。
「他校の生徒さんでも試合会場でたくさん見かけますね」
「まあね。
流派によって重んじているものが違うから、その人たちにとっては余計なお世話かもしれない。
少なくとも僕が今指導している君たちには、手の内をおざなりにしてほしくないんだ」
「わかりました。努力します」
あたりまえ水準
あたりまえの基準は人によって違う。
私たちが住む国、日本では蛇口をひねると水が出るし、
食料に困って生き絶えるという話は滅多に聞かない。
それと同じように私にとって毎日の練習で師匠が見てくれることや、
質問すればすぐに答えが返ってくることは「あたりまえ」、日常の光景だった。
しかし、世間的に見てそれはあたりまえではないと気づいたのは、
高校を卒業して大学生になってからだ。
あたりまえだと思っていたあの環境は、案外恵まれていたのかもしれない。
師匠が毎日練習を見てくださることで、少し寄り道しつつも大きくブレることなく進んできた。
もしこれが月に一度だったら、師匠とはここまで会話できなかっただろうと思う。
しかし大学生になった今、案外どころか日本一恵まれていたのではないかとさえ思う自分がいる。
弓道で良い指導者に出会えることがどれだけ幸運か。
初心者のうちに基礎の基礎まで叩き込まれたハードな練習が、
自分のそれからの弓道人生をどれだけ豊かなものに変えてくれたか。
おおげさでもなんでもなく、心の底から強運だと思う。
感謝。